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森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』──良心に反しないためのグレーゾーンの必要性

 先日、『不寛容論 – アメリカが生んだ「共存」の哲学 -』という本を読みました。

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 作家の朝井リョウさんが「心が救われた本」として紹介していたことをきっかけに購入したのですが、この本があまりにも良かった、というか、自分がここ数年悩んでいたことや考えていたことに対しての明確な答え……とまでは行かないにしても、大きな示唆を与えてくれるものであったため、覚え書きも兼ねてちゃんと記事にしようと思いました。

 なので、「この本を読んだ私が、その内容をどう解釈し、どのように自分の生き方に適用しようとしているか」という部分が主題であり、本の内容だけでなく、そこから派生して飛躍した私自身の感想が多分に含まれています。

 本の内容がこの記事に書かれているテーマと一致しているという意味では全くなく、かなり個人的な意見・解釈が入っていると思うので、

 くれぐれも著者の主張を正しく理解したい方は必ず元の本を読んでください。というか本当に良い本なのでぜひ読んでください。

 (別にネタバレとかそういうジャンルではないので後で読んでも良いと思いますが、私の変な解釈を前提に読んでほしくない気持ちもあるので)

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「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容がまかり通る植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、その「キレイごとぬきの政治倫理」を読み解く。

 この本は、良くも悪くも最近のトレンドワードとなっている、「寛容」「多様性」という言葉を巡る歴史について、植民地時代のアメリカで活躍したロジャー・ウィリアムズという人物と、彼の宗教観・他宗教との関わりを通して問い直すものとなっています。

 ここで、「多様性という言葉には関心があるが宗教には興味がない」と思う方もいるかもしれませんが、現代の社会、特にアメリカという国について理解する上で宗教は不可分のものであるということは、この本を読むとしっくりくるはずです。

 ただし、逆にそれについて説明するとこの本の大部分を引っ張ってくる必要があるので、なぜ宗教の理解が寛容について考える助けになるかについて、ここで一から説明することはしません。

 宗教という視点を通して書かれているだけで、内容はそれ以外のあらゆる価値観や思想に置き換えて受け取ることもできる普遍的な教訓であると感じたので、この記事では現代の社会の話を中心に書いていきます。

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現代的寛容のパラドックス

 そもそも、「今の社会が寛容である」と思っている人は、あまり多くないと思います。それは今回のオリンピックを巡る様々な問題にも象徴されますが、

 本来であれば多様性を尊重する方向に進み、民族差別も性差別も昔より明らかに減ってきているはずなのに、どうしてそうなってしまうのか。

 この『不寛容論』の中で何度か登場するキーワードでもある、「寛容のパラドックス」は、それを考える1つの手がかりになります。


 冒頭で引用される有名なフレーズにもある通り、「寛容な社会/人間は、不寛容なものに対して寛容であるべきか」という問いは代表的なパラドックスの1つですが、実はそれがすべてではなく、

 「自分たちに危害を加えるわけではないが不快であるものに対して寛容であるべきか」という問いもあります。

 直感的には、前者(寛容な社会を危険に晒す、他者の自由を奪うもの)は否定されるべきで、後者については肯定されるべき、とすれば収まりが良いように見えますが、実態はそこまで明快に分けられるものではありません。


 今の社会が理想として目指しているのは「肯定的寛容」と呼ばれる現代的な寛容で、つまり「相手のことを理解し、敬意を持って尊重しよう」という態度です。

 その理念に異を唱える人はいないと思います。全ての人間が、相手のことを自分と同等の存在だとして尊重することができれば間違いなく社会は良くなるはずです。

 でも、現実世界でそれを実践しようとした時に、例えば私たちはチベットや香港に迫害を続ける中国や、まさに現在進行形の問題であるタリバンなどのことを、理解し、敬意を持って、尊重することができるのか。

 人権や倫理というものが明確に善悪を分けられるわけではないし、それを相手に押し付けようとする時点で相手のことを尊重しているとは言い難い。かといって、「被害者がいるわけではないから個々の自由として容認しても良い」と言えるような状況でないのも事実です。国や民族としての自己決定権と、そこに属する全員が同意しているかどうかはどのように区別すれば良いのか。


 もう少し身近な範囲で考えてみた時に、例えばヘイトスピーチの規制に対して異を唱える人はあまりいないと思います。もちろん適用範囲についての検討や恣意的な運用を避ける必要はありますが、ヘイトスピーチそれ自体は他者の権利を明確に侵害しているからです。

 では、河村市長や森元首相の行った女性蔑視的な言動についてはどうか。

 河村市長のあの行為自体は、端的に言って「訴えられなかっただけのセクハラ」なので、本来で言えば罰せられるべきだし、それが許されてしまうことで今後の社会への影響があるとも言えます。

 ただ、「訴えられなかっただけのセクハラ」が日常的に行われている会社なんて山ほどあるだろうし、セクハラといっても程度によって様々です。全く同じ発言であっても、TPO、または相手との関係性によって許される場合もあるし、人によっては許されないと思う人もいるでしょう。

 DaiGoについてはどうでしょう。生活保護受給者の生命を軽んじる発言を行い非難されましたが、あそこまで過激でなかっただけでいわゆる優生思想的な発言を行った芸能人は他にもいます。例えば、松本人志は2年前に犯罪者のことを「生まれついての不良品」と表現しています

 古市憲寿が今回の件と死刑制度の是非を関連付けたことで批判されたというニュースもありましたが、実際、根底のところで共通する問題としてはあって、つまり、DaiGoの発言や思想が罪であり悪であるとするのであれば、死刑制度を肯定している全員が罪でも悪でもないという論理はどこから導くことができるのか。


 現代的寛容、他者を尊重するというのは、このような簡単に割り切れない問題を複数抱えています。

 まず自分がこの本を読んで最初に気づかされたのは、この「現代的寛容とは実践の難しいものである」ということそのものです。

 多様性の尊重というのは言葉としては単純明快であるが故に、それをわかった上で実践できていないのは単に精神的に未熟、または努力が足りていないと、それを追い求める人ほど思ってしまいがちな面があると思います。少なくとも私はそうでした。

 自分に対して危害を加えるものに対して寛容に接しようと思ってもなかなかできないし、危害を加えられなかったとしてもどうしても理解できないものはあるし、そういったものに反射的・生理的・本能的に不愉快さを感じてしまう。自分がそうなってしまうのは、自分の心が狭くて意志が弱いからであって、本当に多様性の尊重を実践している人はこのような困難にぶつかることはないのだと。

 しかし実際には、そもそもの思想自体がパラドックスを孕んでいて、この本でフィーチャーされているロジャー・ウィリアムズがそうであったように、どんなに意志の強い優れた人であってもそれを追求する段階で必ず、そう簡単に割り切れない難題に直面するわけです。


寛容は嫌いなものに対してのみ可能である

 そもそも、「寛容」という言葉自体が、自分が嫌いなものや悪しきものに対してしか成立しない、ということを筆者は指摘しています。

ここには、研究者たちが「寛容のパラドックス」と呼ぶものの一つが潜んでいる。寛容であるためには、相手を嫌いでなければならない。なぜなら、寛容とは嫌いなものや悪しきものに対してのみ可能だからである。誰も、「自分はアイスクリームに寛容である」とか「お年玉をもらうのに寛容である」などと言って威張る人はいないだろう。(No.853-857)

 正直に言って、私はこの文章を見た時、頭をガツンと殴られるくらいの大きな衝撃、価値観の揺さぶりを受けました。考えてみれば当たり前のことなのですが、考えたこともなかったなと。

 つまり、本当に「他者のことを理解して受け入れる」ということがあらゆる他者に対して徹底できている人間しかいない社会では、「寛容」というものは存在しないはずです。

 他者に対して間違っている、悪であるという気持ちがある時点で、そもそも他者のことを尊重できていないのだから、この世界には正しいもの、善いものしかないので、「寛容に接しなければ」なんて考える必要もない。

 逆に、間違っていて悪であると見なせる相手がいるとすれば、それは例えば殺人犯のように明らかに他者の権利を侵害している存在であるので、寛容に接する必要がない。


 そして、多様性を追っているはずの今の社会が明らかに寛容さを失っているように見えるのも、これで説明が付きます。

 リベラルは、多様性を尊重しようとしているので、「悪ではない」と考える範囲はおそらく保守より広いが、一方で「悪であるが罰しなくて良い」という領域については何も触れていないし、正しくないものを許容しようとは考えていない。

 それは「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」という言葉にも象徴されています。

 だから結果として、ヘイトスピーチから女性蔑視まで、その全てに対して目を光らせ、問題があれば全て正そうとし、結果的に、リベラルが発信力や影響力を強めるほど、社会が息苦しくなっていくような感覚を与えてしまっている。

 政治の世界では、こうした感情的動員への反動が「リベラル疲れ」となって表現されている。ルイジアナ州に住むティーパーティ支持者の一人は、事実ではなく意見ばかり押しつけてくるCNNテレビにうんざりする、とこぼしている。客観的なニュース報道を見ようとしてチャンネルを合わせるのに、アフリカの病気の子どもを映し出しては、視聴者の同情に訴えかけ、「この子をかわいそうだと思わないなら、あんたは人でなしだ」と言わんばかりだからである。(No.3752-3758)

 これはアメリカでの事象ですが、日本でもマスメディアに対してこのような不満を持っている層は少なくないでしょうし、そういう人たちが反動としてYouTuberの過激な配信に流れていくのも反動の1つと言えます。


中世的寛容とは何か

 そのようなジレンマを抱えている現代的な寛容論に対して、『不寛容論』が大部分を割いて取り上げているのは「中世的寛容」です。

 宗教と政治が現代のように分離されておらず、当たり前のように国教として紐づいていた時代に、異教徒や、「教義を厳密に適用すると悪とされてしまうが社会的になくすことのできないもの」を取り込む手段として用いられていたのが、元々の「寛容」という概念でした。

 現代的な寛容との違いの中で大きなものは次の2点です。

 ここからして、中世の人びとがもっていた寛容理解の二つの特徴が明らかになる。  第一に、寛容とはあくまでも悪に対する態度のことである。(中略)寛容の対象になるものは、悪であり続け、その悪が是認されたり割り引かれたりすることはない。ただ罰せられずにいるだけである。(中略)  第二に、寛容とは「より大きな悪」を防ぐための便法である。(中略)複数の取り得る道をあれこれと比べてみた上で、いちばん害の少ない道を選ぶのである。(No.804-818)

 この本で大きくクローズアップされるロジャー・ウィリアムズもそうですが、中世の人々の根底には強固な宗教観があり、それが正しいこと自体には疑いを持っていないので、神の教えに(異教徒も含めて)全員が従うのが自然だと考えています。とはいえ、異教徒全員を殺したり社会から排除したりすることはできないし、改宗を強制することも基本的にはできない。

 だからこそ、それを「罪ではあるが罰しない」ための論理として「寛容」という概念があり、それは「罰する方がより大きな悪になるから」避けるというものです。この場合、寛容に接するかどうかの基準は「寛容に扱うことでより大きな悪を避けられるかどうか」になります。


 この考え方の是非は置いておいて、「寛容」の本来の意味はこのような、利己的で計算高いものでした。

 このような中世的寛容がそのまま現代に通用するかと言えばそんなことはなく、特に、国や政府、社会全体としてこのような考え方を持つというのは、「自分たちの利益に適う場合のみ存在しても良い」というような、強権的な支配になってしまうでしょう。

 裏を返せば、今の自民党はリベラルよりよほど「寛容」であるとは言えるかもしれません。主義主張としては完全に右派だし、差別的な発言もたびたび飛び出していますが、一方で明確な不正と言えば自分の身内を厚遇したり私腹を肥やしたりする程度で、権利を制限するような行為や迫害をしているかと言えば別にそこまででもない。今より良くしようという方向もあまり見えませんが、今以上に差別を強化した例もあまりない。

 ……今の日本が中世ヨーロッパと同じ政治状況だと考えるとそれはそれですごくやるせない気持ちにはなりますが、まあ、そんなに外れていないような気もしますが、

 ともかく、国や社会レベルの行動規範としてどうしていくべきかということについてはそう簡単に答えが出るはずもないし、正直、私がここで何か言ったところで大した意味もないので、一旦棚上げして、

 この記事の主題である、個人レベルの行動規範の話に移ります。


中世的寛容と現代的寛容のマージ

 冒頭で引用したあらすじでは、中世的寛容について「キレイごとぬきの政治倫理」という言葉が使われていますが、

 おそらく、「多様性」という理想に対する反論として最もよく使われるのがこの「キレイごと」という言葉ではないでしょうか。


 「他者に対して寛容である」「多様性を認める」という趣旨の言葉を聞いたことがないという方はいないと思いますが、実際のところ、その言葉が空虚で胡散臭いもの、特定の誰かに利するものに聞こえることが多いと思いますし、

 そして、私がここ数年何となく考えていた、「多様性を認めることは本当に正しいのか」「他者の考え方を全て受け入れることはできるのか」という悩みも、一方でそれと同じ発想の延長線上にあるものだと思います。

 個人レベルの行動規範として考えても、寛容であろうとする、多様性を尊重しようとする、というアクションはあまりにも困難が多く、そう簡単に割り切れない問題がたくさん立ちはだかっている。


 「全ての他者を理解して尊重する」という現代的寛容は、「どうしても理解できなかったものに対してどう接するか」「自分に危害を加える相手も尊重すべきか」ということについて何も教えてくれません。

 その帰結として、現代的寛容の側に立とうとする人々は、結果的に自分と違う考えの相手に対する不寛容を強めていくようになってしまっているようにも見えます。

 多様性を愚直に追求しようとすると、この世界には毎日数えきれないほどの不正や悪や不愉快、多様性を否定するものが蔓延しています。その全てに対して異を唱え続け、

 自分自身も含めて、それを100%常に実践し続けられるわけではない社会に生きているのも事実で、それを常に「これは正しい、これは正しくない」と綺麗に分けられるのか。


 このような終わりのない問いを避けるために、中世的寛容をそのまま適用して、「自分の思想と異なる他者は間違ってはいるが、自分に害を為すわけではないので存在しても良い」という態度で生きるのは、もちろんあり得ないでしょう。あまりにも失礼だし、現代で受け入れられる価値観ではない。

 私自身としても、現代的寛容、他者の尊重が重要だという考えは変わっていないし、それを諦めるつもりもありません。

 ただ、うまく両者をマージすることはできるのではないかと思います。


 つまり、「基本的には他者を尊重するし理解しようと努める」が、「自分の価値観と照らし合わせてどうしても認められない悪であっても、それを完全に否定することでより大きな悪が生まれるのであれば、そのままにしておいても良い」ということです。


グレーゾーンとしての寛容の実践

自分が不寛容な人間だとは認めたくないものである。すると、残る選択肢は「相手に非があるからしかたがない」という正当化である。昨今の社会問題では、何かと窮屈な正義をふりかざす人が目立つようになったが、それは結局のところ、自分が不寛容だという事実に目をつぶりたいからなのかもしれない。普段なら、本来なら、自分はもっと心の寛い大らかな人間なのだが、相手があまりにひどいから、やむなく社会正義のために批判するのだ、という自己解釈である。(No.3725-3729)

 今までは、例えば多様性を否定する何かを見た時に取れる手段が、「その考え方を理解して肯定する」か「考え方を理解できないものとして否定する」かという、白か黒の2パターンしかなかったのですが、

 そこに、「理解できないが容認する」というグレーゾーンを選択肢に加えるということになります。


 例えば、DaiGoの発言自体は、悪であり、誤りで、許されるものではない。ただ、DaiGoが今すぐ全ての仕事を失って社会から排除すべきかというと、それは、社会として「より大きな不寛容」を生み出すことになると思います。

 だから寛容に認める。ただ、そうしたからといって、その発言自体を正しいと思っているわけではない。明らかに悪で、誤っている。誤りだと主張し続けることと、でも存在していいと許容し続けることは、矛盾していない。

 逆に、自分の中で以前から許していたもの、例えば「このご時世にパーティーをする人」、「夜中に街で大騒ぎしている酔っ払い」あたりも、厳格に自分の中の論理で言えばあり得ないし、自分に対する害が全くないわけでもない。

 「浮気・不倫をする芸能人」なんかは、私自身への害はなかったとしても、被害者もいるので、「正しい」とは到底言えない。

 ただ、それを厳密に責めることは社会の、そして自分自身の息苦しさに繋がると思っているし、当事者間での問題であって社会的制裁が必要なほどの悪ではないので、容認する。有村昆もアンジャッシュ渡部も東出昌大もさらば東ブクロも鈴木達央も、正しくはないけど、活動を続けていてもいい。

 害という側面だけ言えば、例えば「何となく喋り方や態度が不快な同僚」とかも、嫌ではあるけれど、あえて争いを起こすほどの問題が起きているわけではないので、それはそれとして付き合う。嫌いだという気持ちそのものを消そうというところまでは行かない。

 ……こうして考えると、私自身は意外とこの本を読む前から寛容を実践できていたような気もしますが、

 ここ数年、こういう本来許されるべきではない社会悪を許している自分はその悪に加担しているのでは、という罪悪感がずっとあったので、それだけではないという論理的な土台を持つことは自分の生きづらさを軽減してくれるように思います。


 もちろん、この考えが全てを解決してくれるわけではありません。結局どこかで黒とグレーゾーンの線引きはしなくてはならないからです。芸能人が女性問題で謹慎する必要はないと思っているけれど、だいぶ昔の事件ですけどTOKIO山口達也はちょっと同列視しにくいな、とか。でも一生表舞台に出るべきでないとまでは言えない気もする。DVとかパワハラはどうだろう。

 あらゆる差別に関して「自分には関係ないから」という理由で関与しないというのはそれこそ差別への加担になってしまう。全てに対して声をあげることを止めてしまったらやっぱり社会は変わっていかない。

 「自分の害にならないから悪を許容する」というだけだとあまりに都合の良い身勝手な論理になってしまうので、そうではなく、「より大きな悪を避けるために許容する」というポリシーが必要だけど、きっと現実世界にあるのはちょうどその中間に属するものばかりでしょう。この部分はずっと考え続けていかなくてはいけないテーマだと思います。


 ただ、少なくとも善悪に二分するしかないと考えるよりは、柔軟に物事を捉えやすくなるのは確かだと思います。

 そして、そういう割り切った寛容さを持った人が増えてくることで、今のこの息苦しさに包まれた社会が多少は生きやすくなるのではないか、と思うし、特にリベラルとされている集団の中に増えれば、もう少し社会における多様性の受容もされやすくなるのだろうなと。そういう意味で、これは間違いなく今もっとたくさんの人に読まれるべき本だと思いました。

 少なくとも自分自身では、これからの行動規範として、自分の周りの人や社会との関わりではそのような実践を目指そうと考えています。そういった新たな視座を与えてくれたこの本に出会えてよかったです。

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 余談ですが、この記事を書きながら面白いなと思ったのは、この記事を通して考えていることって、全て現実的なアクションの話ではなくて、「自分のこの心のモヤモヤの落としどころをどこに置くか」という話でしかなかったりします。

 例えば、今までは「松本人志は悪だから罰を受けるべき」だと思っていたのが、「松本人志は悪だが罰を受けるほどではない」という風に考えが変わったとして、別に現実的には何も変わらないわけです。罰する権利も権力もないので。許さないと決めたとしても、別にそれで署名集めたりタウンワークにクレーム入れたりはしませんし。

 つまりこれは自分がそういう「許せないが現状維持にしておくしかないもの」を見た時に、どう考えれば自分の価値観に背いたことにならずにいられるか、という、悪く言えば後づけの論理です。


 そして、この『不寛容論』の中でも、「寛容」というのはそういった後づけの論理だということが示されています。

 この記事では割愛していますが、金融業や売春などといった、キリスト教の教義で言えば間違いなく「罪」であるものを、どのような論理で「寛容」の対象とするかを巡る解釈の発展は読み物として非常に興味深いパートです。


 しかし、宗教という明確な信仰を持ち、それを最上位の存在に置いている人たちが、そのようにロジックを捻って現実世界に適合させる必要性があったのはわかりますが、

 なぜ無宗教である自分がそんなことをするのかと言われれば、

 それは自分の信じる価値観に背いたと思いたくないからで、もっと単純化すると「良心の呵責を受けたくないから」みたいな話になるのではと思っています。

 自分の価値観を基準とした時に悪だと思われる行為に対して、見て見ぬふりをしなければならないシチュエーションは自分の人生の中で何度もあり、そのたびにそれを容認することは自分の良心に反しているのではという悩み、矛盾を、それこそ中学とか高校の頃から無自覚に感じていて、ずっとそれに悩んでいたのですが、この本でそれが少しだけ軽減されたように思います。


 ところで、この「良心」という概念自体が宗教的な用語です。

 良心論の展開についてはこの本の5章で詳しく解説されていて、当然ながら時代によって解釈も変容しているし用語としても複雑なので一概には言えませんが、

 自分なりにざっくりとまとめると、キリスト教における良心とは「内なる神の声」であり、人間は生まれながらにして良心を持っており、人間がその解釈を誤ったり背いたりしてしまうだけだとされています。

 つまり、「良心に背かないために寛容という概念を解釈に追加する」という行為自体、やっていることはキリスト教徒とほとんど同じ構図になるわけです。

 なんだか別の道から同じゴールに辿り着いたかのような巡り合わせを感じますし、

 私自身は特定の信仰を持っていないですが、人間の根底にある考え方として最終的に行き着くところは案外変わらないのかもしれないなと思ったりしました。