ひとりごと access_time

続いてしまう生

 1月も気づけば終わりですね。

 最近、買うかどうか迷うラインぎりぎりのオンラインイベントがたくさんあるのですが、

 それらに対して、「一旦後回しにして購入期限が切れるまで忘れる」という方法でチケット代を節約しています。

 佐久間PのANN0イベントも、Creepy Nutsのワンマンも、マヂラブ寄席も、ラランド忘年会も、パスピエワンマンも。

 買おうかと思ってたし、買ったら十分に楽しめるとは思うんですが、なかったとしても生きていけるのだから別にいいかなと。

 非日常の存在って別になくても生きていけるし、結局一過性で継続性のないものって楽しくないんですよね。終わった後に虚しい日常が待っているだけで、そのギャップは、経験しなければ生まれないので。期待しなければ苦しみもない。無料だったら観たと思いますけど、継続性のないものにお金を払う虚しさ。と言いつつスタバのドリンクとかも一過性のものなのにガンガン払ってしまうわけですけど。

——————–

 祖母が亡くなりました。

 ここから先は本当に不快になる方もいると思うので人の命を軽んじている人以外は読まないでほしいんですけど、

 まあなんというか難しいですね。正直に言うと。

 7~8年前に倒れて入院してから、1年に1~2回…ここ2年くらいは会えていませんでしたが、

 一応生活はできているものの記憶は途切れ途切れで、会話はできているけれど同じ話がずっとループしてしまうような、コミュニケーションとしては成立していない状態が続いていたので。

 だから、こういう言い方はもうすごく不謹慎なのはわかってますけれど、

 これをきっかけにして何か自分の中で具体的に失われたものがあるわけではないというか。

 会えたらこういう話がしたかったな、みたいなことで言えば、それはもう数年前に不可能になっていたので。


 その上で、「祖母が亡くなるということがわかった上で1週間前に戻れたら会いに行くか」と言われたら、行かないと思うんですよ。それによって何も生まれないので。それは別に祖母が会話できない状態だったからとかそういうことは関係なくて。

 例えば、wowakaさんのことがあって、じゃあ『LOVELESS』(2018年のワンマン)に行っておくべきだったと思うかと言われたら、それは全然ないです。そういうことじゃないんですよね。その時に会いに行こうと思わなかったのはその時の自分の選択であって、それは後から変えられるものではないし、その時にそう選択した自分を否定することはできないので。

 平常時に会いたいと思わない相手というのは、つまり自分の人生の中で拠り所としていない、それがなくても人生を続けていけるということであって、

 別に明日死ぬわけじゃないとしても会いたいと思う人とだけ会えればいいし、毎日会いたいと思うわけではない人が全員明日死んでしまったとしても、自分の人生は何も変わらずに続いていく。いや、別に毎日会いたい人が死んだとしても、何事もなかったかのように次の次の日くらいには仕事に行くわけですけど。

 という風に考えていくと、普通の人は人が死ぬことの何にそんなに悲しむんだろうと思います。

 その人が亡くなったその瞬間に、それにまつわる世界の変化は既に全て完了していて、その先に待っているのは、悲しんでも悲しまなくても総量の変わらない喪失感と同居する日々でしかないわけで、そのことで泣くんだったらそこから一生泣き続けてないと筋が通らない。

 自分はwowakaさんのことで今でも寂しいし今でも世界に対して怒りの感情を持っていますけど、訃報を聞いた時から一度も泣いてはいないし、悲しいという感情が泣きそうになることなのだというのならそういう感情を持った瞬間は別になかったんじゃないかなと思います。


 そうではなくて、自分のためではなく相手のために会いに行くんだ、というアングルで言うと、その人が自分が会いに行くことで喜んでくれるような人間はいない

 そもそも、そういう気持ちで行くのは凄く傲慢だし、そして失礼な行為だなと思うので。自分だったら、別に会いたいと思われていない人に気を遣われて来られても嬉しくないし。

 自分が、ベースとして関わった他者のことをどちらかと言えば楽しくさせてあげられる奉仕の心を持った人間であれば積極的に会いに行けばいいと思いますけど、そうではなくて、自分と関わることで嫌な気持ちにさせた人間の方がはるかに多いし、自分もそういう人たちを不快にさせてきたという痛みをずっと持っているわけで、これ以上そんなことを増やしたいとも思わない。だから会う必要がない。

 みたいなことを考えている人間であるという時点でそれが証明されてしまうというマッチポンプがあるわけですけど。


 じゃあ現在進行形で自分と関わってくれている人たちは何なのか、と言われれば、会社の人たちはビジネス上のものでしかないから別として、

 家族に関しては本当は自分と関わりたくないだろうと思っているから一人暮らしを始めたことは既に書いている通りだし、そので金銭面やその他のことで実益があるから連絡を取っていると思っています。

 それ以外の友人は……今頻繁に連絡取ってるのは2人くらいしかいないんですけど、その人たちに対しては、自分が話したい、関わっていたいから、連絡を取らせて頂いているという気持ちです。

 だから自分の関わっていたいという気持ちがどこかでふっと途切れたら簡単になくなる縁だろうな、つまり、自分に何らかの変化があってその人のことを必要としなくなった時に、向こうから執着してもらえるとは思っていないし、逆に、相手にいつ愛想を尽かされてもおかしくない、自分のような最低な人間が関わりを許してもらっていることが奇跡だというだけのことです。


 だから同様に法事に行く理由もあんまりわからないんですよね。故人に対する感情なんていうのは自分の中で整理がついているか、一生つけられないかのどちらかだし、亡くなった人が自分が来てくれることを望んでいるとかいうのは、そもそも死者の感情のことを信じていないので。

 もちろん、自分とか相手とかではなくて、そういうイベントごとを大切に思っている他の関係者を不快にさせないために行くものだという常識的な理解はありますが、だから余計に嫌なんですよね。本心ではない行動をずっと取らされるので、自分が本当は何とも思っていない軽薄な人間であることを糾弾されるのではないかという恐怖にずっと怯えながら出ているような感覚になる。


 それとは別に法事に関しては不文律があることもそもそも嫌いなんですけど。UXが低いなと思ってしまいます。Splatoonがわざわざマニュアルを開かなくてもデスした時にXボタンでマップを表示できることが示されるように、初めて見た人が迷わずにその動きができるような導線が用意されていないのは怠慢だと思うし、その指定された通りの動きをすることと故人を偲ぶことの繋がりもわからない。その指定された通りの動きをしないと他の参列者が不快になるからしなければならないというのはわかるのですが、だからこそ行きたくない。

 お清めの塩とかも、こう……これは宗教的なセンシティブさになるので難しいんですけど、数百年前にその習慣を最初に考えた誰かのことをまず考えてしまう。意図的にそれを思いついて広めた誰かが確実にいるわけで、そこに合理的な理由があるなら別に良いのだけど。

——————–

 話は変わって、父親の顔を見たのが約2年ぶりでした。2019年末の記事で精神的に縁を切ったと書いて、そのまま本当は最低でもあと5年は会わないつもりだったんですけど、残念ながら。

 自分はいろんなことを分けて考えるのが本当に苦手だなと最近改めて思います。全部を割り切れずに同じテーブルの上に乗せているからこそ、この人は一生会わなくてもいい、というところまで一気に飛ばす思考になる。

 他者や他の存在に対して、一つ許せないことがあるとその全てを許せないし、それを一旦置いておいてそれ以外の部分でコミュニケーションを取るという物わかりの良い態度を取る自分が気持ち悪い。

 祖母が亡くなった直後できっとショックを受けているはずだという気持ちはありつつも、じゃあそれを理由にこの3年された様々な仕打ちを置いておいて接すべきなのかと言われると、それは凄く不快な気持ちになる。だから最低限以上の会話はせずに帰ってきたのですが。転職したことも一人暮らしを始めたことも言う必要がないと思ったので言っていないです。


 なんというかこう……これもどうなんだろうと思うんですけど、顔を見ると少し可哀想だなとも思ってしまったんですよね。

 こういう機会でしか会うことはないのだからもう少し歩み寄って話してあげた方が良かったのかなとか。

 というのも一瞬思ったんですけど、そういう情の部分に向き合って答えを出す必要はないというのが自分の中での結論でもあります。

 感情のゴールって目指したところで意味がないんですよね。別に父親のことだけではなくて、急に音信不通になった友人とかSNSブロックされた元カノとか、あと前の会社でお世話になった人たちとかもそうなんですけど、

 自分が当時苦しんだその問題に対して、すっきりとした答えを出して完全に過去のものにできたかと言えば全然できていなくて、本当に自分はその人たちを失って良かったのかとか、自分が受けた恩に対して自分が今していることは本当に正しいのかとか、未だにわからないし、

 じゃあその人たちが今急に目の前に現れたとして、過去の清算済みのものとして関われるかと言えば、絶対にそんなわけはなくて、心を乱されるだろうなとも思うんですけど、

 そこを追求したところで何の意味もない。実際にはその人たちとの関係が修復されたり、過去に戻って何かをやり直せたりはしないので。

 だから今思い出したら今でも暗い気持ちにはなれるんですけど、思い出さない、検討しない。物理的に遠ざけるという選択を取ることで感情ではなく理性のイシューに移し替えたので、もう感情として考える必要はないんですよね。

 父親のことはもう父親だと思わない、そうする価値がないと2年前に結論が出ているので、考え直す必要がない。

 365日ずっとヤバい人なんていないし、実際に会って話したら温厚な雰囲気にはなるからそりゃ良い面もあるなとか思いますよ。私自身だって他の人から見れば、直接会って話してるだけだったら大概は温厚に見えてると思いますし。でも人間の本質はそこではない。自分の本質はこの記事に書いているような部分だと思いますし、

 それと同じように、そこではない部分で自分は父親のことは許せないと結論づけたので。

——————–

 そして自分は一人暮らしの家に帰ってきて、また父親の存在の一切が視界に入らない人生を再開します。関わりのない他者の1つでしかなく、そこへの向き合い方に頭を使うこともしません。それが一番合理的で正しいとわかっているので。

 明日からはまた仕事です。仕事とプライベートの開発と料理とリングフィットアドベンチャーをしていきます。

 実は結構アプリ開発が順調なんですよ。今月中くらいにはいろいろ片づけたいと思ったりしてます。この土日はバタバタしてしまったので、今週末こそ……。