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多様性を自己肯定に使えない矛盾 ── 『テラスハウス TOKYO 2019-2020』#2 感想

#1感想

『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』#1 感想

 テラスハウス 1st Weekが配信開始となりました。  テラスハウスについては、配信直前に書いた通り、 ... 続きを読む

access_time2019-05-19


まえがき

 最近の日本で、「社会の多様性」「個性の尊重」といった言葉で以て、勝者・多数派の論理を少数派に押し付けることを戒める言説をしばし目にします。

 例えば、「学校が嫌で自殺するくらいなら学校なんて行かなくてもいい」「会社で鬱になるくらいならどんどん会社を辞めた方がいい」みたいな逃避の肯定、

 「女性は社会でまだまだ冷遇されているから保障を増やそう」「LGBTにも夫婦と同じ権利を主張すべき」などの権利主張、

 「生きがいなんて別になくても生きていける」「頑張りすぎなくてもいい」「毎日全力で生きなくても、時々は休憩してもいい」といった凡人の肯定。

 もちろん私はそれらは基本的にすべて正しいと思っています、学校や会社なんか軽率に辞めていいと思うし、女性もセクシュアルマイノリティもそれ以外のあらゆる今の社会で差別されている人たちについては早く是正されればいいに決まっているし、

 自分がたまたま強者であることに寄りかかって弱者のそれを甘えだと切り捨てる、本田圭佑や坂上忍や松本人志みたいな人間の言葉が正論だとされている風潮は本当にクソだと思っているし、

 だから、生きがいがないからといって気に病む必要なんて全くないんですけど、

 ただ、それを自己の肯定に使えるかって言ったら使えないよなあ、と思うこともしばしあります。


 生きがいなんてなくてもいいから毎日ダラダラ生きていてもいいと思うし、そうしている人を責める気はないけれど、私自身が毎日ダラダラ生きていていいとは全く思えないんですよね。

 でもそれって、「辛かったら逃げてもいいんだよ(私は辛くても逃げないけど)」という意味になってしまって、

 それは結局、いくら口では綺麗事を言っていても本心ではそうやって逃げた人のことを見下しているのだと思うし、

 そういう本心を完全に隠すことはできないので、見下されている側の人も「自分は逃げていてもいいんだ」とは到底思えないだろうなと。

目に見える形での個人間の対立が奪われていき、自分で自分の意義や価値と向き合い続けた結果、謙虚とも違う、自己否定が積もっていってしまう。その先には、自分なんてこの世界に存在していたって意味がない、と思い込んでしまう『自滅』が待っていると思うんです。

(中略)

私はこの作品を書く前、『プロットができていないのだから会議で発言してはいけない』と確かに思っていたし、それまでも『原稿のノルマを達成できなかったから、今日はあったかい布団で寝ちゃいけない』とよく考えていました。自分で自分の存在意義や価値を定義しようとなったとき、最も簡単なのは自分の『生産性』を数値化することですよね。何人の子どもを育てているとか、これだけの額を納税しているとか」

「家族もいない、仕事もない、友人も恋人も何もない、自分の存在をどうしても実感できない――そう思い悩んでいたとき、『多様性の社会だからそれでいいんだよ』なんて言葉を投げかけられたら、私はその人のことを傷つけてしまうかもしれない。多様性なんてどうでもいいから数値化できる生産性をくれよ、と、思わない自信がない」

朝井リョウさん「素晴らしき“多様性”時代の影にある地獄」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB

 『死にがいを求めて生きているの』発売後の朝井リョウさんのインタビューにもこんな言葉がありましたが、他人を責めてはいけないと思う一方で、他人を責めないようにしている人たちの存在によって本人は傷ついてしまうし、ということは「責められない」ことはそれだけでは救いにならない。自滅を助長するものでしかない……。



 というこの問題にはもう1つ、表裏一体の問題があって、それは

 「多様性や個性を自己肯定の材料として自分から言ってくるヤツは大抵ただの言い訳」ということです。

 これも凄く厄介で、それを言い訳として使われるとめちゃくちゃムカつくんですが、それはただの言い訳でしょ、と言って責めること自体が多様性の肯定を拒否している人間になってしまうのではないかという。


 ということを考えたのが今週のテラスハウスでした。


結果を出せていない人間に発言権がないのか

 前半のいろいろは飛ばして、翔平と春香が仕事観の違いから対立、というのが今回の主題。

 1つのことをやっていると飽きちゃう、あれもこれも手を出している翔平。

 「1つのことを突き詰められない、どれも中途半端だと(世間的に)思われる、応援」という他のメンバーからのアドバイス交じりの意見に対して「複数のことをやっているのと、1つのことを極められるかどうかは別」という意見を貫く翔平。

1本でやってれば極められると思ってるのって

すげー勘違いだなって思っちゃうんですけど 俺は

 この「いろんなことをやっていて極められている人もいる」という発言に対しての、副音声の山ちゃんのコメントがキモだと思っていて、

山里)まずそれはある程度達成してないとダメだけどね

山里)でもこれを言うと、あまり頑張ってない人の場合はタチが悪いんだよなー

 これをどう捉えるか、という問題でもあるんですよね。


 つまり、「1つのことを極めるかいろんなことを試してみるか」という生き方と、「その結果成功するかしないか」は別問題だと思っていて。特に社会における成功って運にも左右されるし、翔平がテレビや舞台にバンバン出てるブレイク俳優じゃないからといって

 「お前が小説書いてる時間も演技の練習に充てていればもっと売れてただろ」

 「『歌詞書きながらでも演技が極められる』っていうのは役者の世界で菅田将暉くらい売れてから言え」

 っていうのもそれはそれで違うんじゃないかなと。それは結果論でしかないし、

 そうなると今度は役者1本でやって全然芽が出てない俳優の全否定になっちゃうし、「(翔平と違って)役者1本でやってる人は限界まで頑張ってるから仕方ない」っていうのも逆に酷い話w

 「演技がやりたい」「歌詞が書きたい」っていう生き方の選択の中に「演技と歌詞両方やる」っていう1つの選択もあっていいはずで、その結果、どちらかで成功する、どっちも成功する、どっちも失敗する、それは別に本人の生き方とめぐり合わせでしかない。


 ……ただその一方で、いろんなことをやってどれも芽が出てないことで、その「いろんなことをやりたい」という発言自体が凄い軽い言葉に見えてしまう、っていうのも事実としてあるんですよね。

 それが冒頭の「多様性や個性を自己肯定の材料として自分から言ってくるヤツは大抵ただの言い訳」にも繋がってしまうんですけど、

 そういう生き方を選ぶこと自体は別に誰にも否定する権利はない、ないですけど、それをドヤ顔で語られると「いやいや、ただ単に1つのことに打ち込まない言い訳に使ってないか……」というのも人間の心理としてある。


 もっとはっきり言えば、例えば、時間が100あるうち演技50小説50でやっててその発言なら説得力あるけど、演技10小説10女遊び80だったらそれは全然違うぞっていうw


 ただこれだって1本でやってるかどうかとは別の問題なんですよね。その人が努力に使える上限の問題なので。

 もう少しわかりやすいところで、例えば「バイトしながら浪人して結果二浪しました」っていう人が、もしバイトしていなかったら……と思うけれど、

 実際この世界には、バイトせずに浪人1本に絞ったように見せかけて勉強20スマホ80で二浪するクズとかたくさんいるわけだし。

 それこそ軽井沢編(OPENING NEW DOORS)の雄大が良い例でしょう。料理人1本に絞るために料理学校辞めたけど、料理もまともに作らず昼過ぎまで寝てるという。

 複数のことを両立できない人間が1つのことなら極められるかと言えば全然そんなことはない。


 ……そして、こういう翔平擁護みたいな方向になってるのも結局、自分が翔平寄りの人間だなという自覚があるからです。

 私だって、ブログ書いたりDTMやったりプログラミングやったりいろいろ、何となくマルチに頑張ってる雰囲気を出してますけど、

 その中でやりたいことは1つも形になっていない、このブログも1日200~300アクセス程度のゴミだし、作曲も全然できてない、ウェブサービスやアプリのリリースとかもできたことがない。

 そして、実際それらの活動に100使ってるかと言えば、たぶん30~40くらいで、テラハ観たりラジオ聴いたりSplatoonやったりしょうもないネットニュース見たりで過ぎていく時間の方が多いし、

 その言い訳に「複数のことに手を出しているから」というのを使ってる自分がいないとは言い切れない……。


自分を貫いて生きるか、一時的に曲げて結果を目指すか

 もう1つ考えさせられたのはこの発言でした。

翔平)いや 何か そういうヤツら もうどんどん死んでくからよくない?

春香)えっ?

翔平)そういう何かさ──専業しか認めませんみたいなヤツらもどんどん年老いていくからさ

 山ちゃんがこの発言にかなりキレていましたが、個人的にはわからなくもないなと……

 それも全て「新しい価値観の方に合わせていく」ということを二者択一的に捉えているんだろうなと。

 結構考えるんですよね。例えば、「会社でバレンタインのチョコを配る」って、それが半強制の習慣になっているとしたらそれは本当にクソな会社だと思うんですけど、実際、自分が女性だったら配るかもしれないな、とか。

 初詣とか、サービス残業とか、年賀状とか、旅行のお土産とか、LGBT弄りみたいなことも含めて、

 生産性が低い、意味がない、将来的に許されなくなるものたちについて、

 「止めればいいのに」と思いながら「でもやらないと何となく失礼な気がする/空気が壊れるから自分は消極的にやる」っていうのはあまりにも日本人すぎる思考で、

 誰かが止めないといけないのであれば、まず自分一人でも止める、という人が増えていかないと変わっていかないなと。 

年始の瀬 | Our Story’s Diary

 社会というものが個人の集合体であるとして、

 「ゆくゆくは自分のこの新しい価値観がスタンダードになっていくだろうけど、今はまだそうではないから古い価値観に合わせる」という判断をする人たちがいる限りその新しい価値観は根付かないだろうと思うんですよね。

 であれば、そういった場面で、多少周りとの軋轢を生み出したり、それによって生きづらくなったとしても、新しい価値観に基づいた行動を選択して、その正しさを主張するべきなのではないかという……。

 ただそれによってその人が周りから応援されない、社会から受け入れられない、というのは、権力を手にできないという意味なので、結局社会の変化から遠ざかってしまうし、

 そこを割り切って会社を辞める選択をした香織が、一方で翔平の考え方自体には理解を示しているように、

 またはそれこそオードリー若林さんが、自意識の葛藤に苛まれながらも一旦そこを引き受けてメディアスターになったことで、今度は『ひなあい』『激レアさん』『セブンルール』で新しい価値観を温かく肯定する役割を担っているように、

 一時的には社会をうまく渡っていくための妥協が必要だという意見自体は間違いなくその方が正しいと思うし、

 だから何事もバランスなのだというありふれた結論に落ち着くのですが……。


まとめ

 テラハほとんど関係ない自意識の記事になりましたが、

 こういう記事を書きたいと思ってテラスハウスの毎週レビューをやろうと思っていたので、2週目にして早くもそういう題材が出てきたのはありがたいです。

 こうやって常に「自分はどうなのか?」「自分は何ができるのか?」というのを揺り戻しながら観ていくのがテラスハウスの私なりの見方です。

 別にメンバーの粗探しとかはする気ないんで。それは山ちゃんねるとそのコメント欄で全部やってくれますから。

 もちろんここまでのボリュームにはならない週もたくさんあると思いますが、自分にしか書けないことを書くための材料としてこのシリーズを更新していきたいと思っています。


 果たして来週は……正直、こんな記事を書いておきつつこれから翔平の株が下がっていくシーンがバンバン流されるんじゃないかという予感もあるんですよね。テレビ的な演出も含め。演技の仕事もやらずにダラダラしてるとか。

 どのジャンルの活動でもいいけどちゃんと何らかの結果出して正しさを証明して卒業してほしいと思ってしまう。もちろん結果出すことが全てではないけど、あそこまで言っておいて逃げるように卒業はちょっと胸が痛むのでどうか頑張ってください……。完全に感情移入しています。

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