映画『勝手にふるえてろ』感想──自意識過剰な自己否定を肯定する物語
映画『勝手にふるえてろ』を観ました。2018年の初映画。
編集の待ち時間がバッチリ合ったので、軽い気持ちで見に行った映画「勝手にふるえてろ」すげー良かった。松岡茉優さんと渡辺大知さんの魅力大爆発。声だして笑ったし、色々刺さった。素晴らしかったです。いや本当に見て良かった。
— 佐久間宣行 (@nobrock) 2017年12月25日
この映画で松岡茉優が表現に成功したのは「非モテ女子の悪戦苦闘」という表層よりもっと深く普遍的な、この時代に生きる女性の一定層が確実に心に抱えてしまう、鍾乳洞のように複雑な心の構造だと思う。それは複雑でありながら相似性を持っている。同じ社会の力が別の心に削り取った構造だからである
— cdb (@C4Dbeginner) 2018年1月1日
元々原作読者というわけではなく、公開前はどんな映画かすら知りませんでしたが、
このような絶賛を目にして、その内容もいわゆる非リア的価値観にフォーカスしたものだと知って、とても観てみたくなりました。
卒論初稿提出までは何とか気持ちを抑えつつ、提出翌日にレイトショーで観に行き、そして、この映画の素晴らしさに震えました。
この映画を観て何を感じたかということを、個人的なメモとして書いていきます。
あらすじ:初恋相手のイチを忘れられない24歳の会社員ヨシカ(松岡茉優)は、ある日職場の同期のニから交際を申し込まれる。人生初の告白に舞い上がるも、暑苦しいニとの関係に気乗りしないヨシカは、同窓会を計画し片思いの相手イチと再会。脳内の片思いと、現実の恋愛とのはざまで悩むヨシカは……。
Contents
前置き
前提として私は非リア女子ではなく22歳男子なので、おそらくこの映画が描いていることの全てを正しく受け止められていないと思うし、
今から書くことはそんな映画を自分と接続させた感想なので、それが「男女問わず普遍的に当てはまること」であればいいけれど、「女子向けのメッセージを無理に男性目線で捻じ曲げている」可能性も十分あり、その2つを私には区別できないので、引っ掛かったらスルーするかコメントで指摘してください。
新しい「非リア」像の構築
とにかく松岡茉優の非リア演技が完璧すぎる。公式やインタビューでは「オタク女子」「サブカル女子」と表現されているが、それはこの映画で描かれている像を正しく捉えていないので、
この記事ではもう少し広く括るために「非リア」という表現を使う。そもそも私は女子ではないし。
あまりにも完璧すぎて、まるで私は松岡茉優なんじゃないか? とたびたび錯覚させられてしまうほどの圧倒的なリアリティ。
それは「もし自分がこんなに可愛い女の子に生まれていたら」みたいな話では決してないし、そして、こんな可愛い女優が非リアを演じるのはおかしい、みたいなことも起きていない。
だって、非リアとかいじめられっ子にも可愛い子なんてたくさんいるし、逆に学校内ヒエラルキーの上位にいる女子が可愛くないということも全然ある。
だからビジュアルの話じゃない。「この性格でこの言動だったら、例え美人だったとしてもクラスでも浮くだろうな」という説得力がある。
こればかりは言葉で「こういうシーンがあって、松岡茉優がこういう台詞を吐くのがよく表現できてる」というレベルの話じゃないんですよね。見ればわかるけど、松岡茉優の演技ってもっとはるかに深く、挙動とか声とかそういう身体の深いレベルで心の形を表現している。本当に恐ろしい女優だと思いました
— cdb (@C4Dbeginner) 2018年1月1日
本物の非リアは飲み会に出る
同時に、それ以前の脚本・演出レベルでも「ステレオタイプ的な非リア像の否定」が行われている。
まず、SNSを馬鹿にしている。「誰にも求められていない言葉をネットに吐き出して恥ずかしくないんですか」と見下している。
これは声を大にして言いたい、SNSでわーきゃー騒ぎながらガチャの爆死スクショを貼ったりPeingでボケてみたり、という人たちは、非リアではなくリア充オタクだ。
インターネットが暗い人間のためのものだった、なんていうのは10年前の話。それはヨシカが、Facebookらしき実名制SNSに登録さえしていなかったことからも明らかだ。
もはや現実社会とネットの二項対立なんて存在しない。人間の集まるコミュニティに馴染める人と馴染めない人の二通りが存在するだけ。
さらに言えば、「飲み会には出る」「友達はいる」という点も新鮮に感じた。
一般的なイメージであれば飲み会を断る素振りを見せそうなものだが、わざわざ飲み会を断れるのはその時点で自分の軸をしっかり持ったコミュニケーション強者なわけで、
真のコミュ障は誘われたら断れずに場違いに出席してしまって愛想笑い。もっと言えばトイレに立つことすらできずに端の席でスマホ(1)私の3ヶ月前の実体験です。
そんなヨシカの使うスマホはAndroid。背面に電源ボタン。ダサい。
結局iPhoneの高校生所持率が高いのも、周りから馬鹿にされない、コミュニティで変に浮かないために持つからであって、それを気にしないオタクの方がAndroid率高いはずなのだ。iPhone + Macbookでドヤ顔しているのもその時点で勝ち組でしかない。
これら一つ一つが、単なるステレオタイプやイメージに頼っていない、きちんと現実に存在する人たちの方を向いている映画であることを証明している。
「陰キャ」という言葉が示す次世代スクールカースト
ちょっと『勝手にふるえてろ』から離れた余談になるが、
オタク=ダサい、みたいな価値観を一応でも持っているのはたぶん今の20代までで、現代の中高生にはおそらくそういう感覚すらないと思う。
今の中高生はみんなスマホを持っていて、Twitterを使っていて、まとめブログも見ている。ソシャゲを遊んで深夜アニメを観ているのも少数派ではない。
それはもちろん2010年代に起きたゲームやアニメの地位向上の結果だから良い変化ではあるのだけど、ともかく今の時代は「オタク」はもはや侮蔑にならないし、
だから今は、「陰キャ・陽キャ」という言葉が新たに使われ出している。この新しい区分はつまり、
「陽キャは深夜アニメ観ててもデレステ遊んでてもTwitterでなんJ語使っててもキモくないけど、陰キャはサッカーやってようが恋人がいようがキモい」時代になったということ。
後天的に手に入る属性ではなく、先天的に性格(character)が陰。暗いやつは何をしてても暗い。
だからこの映画は主に20代・30代のための映画だ。それこそ今のヨシカと同い年の、大学生か社会人なりたての人たち。
ひょっとしたら今の中高生はこの映画を見ても「タモリ倶楽部」というワードでピンと来ないのではないか(2)そもそも「タモリ=昼の顔」というイメージも昔の話だから、タモリ倶楽部の相対的なサブカル感は薄れているのではないか。
理由があれば行動的にもなれる
ヨシカの暗い部分に過剰な感情移入をしてしまうと、逆に後半の同窓会を企画するあたりからの行動力に若干引いてしまう人もいるかもしれないが、
これも考えれば納得がいく。
ヨシカは単純な行動を取ったり恋愛願望の強い周りの人間を「本能に流される野蛮な人間」だと蔑んでいる。
これはつまりヨシカが、事前にあれこれ考えてからでないと動けないタイプだということを示しているが、それと頭が良いことはイコールではない。
よって周りからは「よくこんな大胆なことできるな、馬鹿じゃないかな」と思いそうな行動でも、本人の中できちんとした理由付けがされていれば行動できてしまう。
それが顕著に出ていたのが、実名SNSに別のクラスメートを騙ったアカウントを作って同窓会を開く一連の流れだが、あの行動には、「最悪バレてもアカウントごと消せば自分だとはバレない」っていう心理的なセーフティーネットがあったはずだ。
俯瞰的に世界を見ているつもりの人間にとって、最悪のケースでも致命傷にならない、というのは重要なことだ。
だから、「ボヤ騒ぎを起こして死にかけてから、このまま死ぬよりは何とか今のイチに会いたい」という理由付けが必要だった。このまま会えずに死ぬのが最悪のケースだから、行動した結果で何が起きてもそれよりはマシだ、という、自分を納得させる理由。
それは言い換えれば、野蛮な自分の欲望を理性的な自分に呑ませる論理。それは野蛮な自分の欲望を元にした結論ありきの論理なので、往々にして間違っているが、本人は頭が良くないので気づかない。
私自身にもそういう経験があるので(3)現在別の彼氏がいる元カノに告白したことがあります。その顛末を書いた記事⇒同窓会と成人式と伏線回収、だからヨシカがああいう行動をしたのも腑に落ちた。
自己否定は自意識過剰の裏返しである
物語の後半で明かされる、いろいろな話を聞いてもらっていた話し相手が、実は全てヨシカの脳内会話で、実際は話したことがなかった。
正直この展開は割と早い段階で読めた(4)この種明かしシーンを観ながら、実はアパートの隣のオカリナさんや来留美との会話も全部妄想だった……という更なる展開を一瞬予想して怖くなったが、さすがにそこまでホラーではなかった。ヨシカのような人間に、バスで隣り合った相手に話しかけるなんてできるわけがない。
ヨシカが欲しがっているのは自分の想定通りの返答をしてくれる相手だ、という、上の理論先行型な性格とも通底していると思う。
自分の考えが世界で一番正しいと思っているので、自分のシミュレーションの通りに動かない他人は間違っている。だからイライラする。
ヨシカの性格は、自己評価が高すぎる、自己評価が高すぎることを自覚しているがプライドを捨てられないという捻じくれすぎた自意識を体現している。それを「自己評価が低い」と「自意識過剰」のどちらかに分類することしかできていなかった旧来の映画にノーを突き付けたから、この映画が、松岡茉優が、新たな代弁者としてもてはやされているのだと思う。
自虐とは、「そんなことないよ」のカツアゲ
ヨシカの臆病さや自己否定は、一見すると「自己評価が低い」という心理で語られそうなところですが、実際はそうではなく、自己評価が高いからこそ、他者から傷つけられる前に自分で弱めに刺しておく、という要素が多分に含まれている。
自分が好きだから他人に話しかけられない、自分が大したことない人間だということを突き付けられたくない。
自分から「彼氏なし、脳内彼氏あり」と言って自虐的に笑うのはいいけれど、それを他人からイジられると嫌になる。だから恋愛経験がないことを勝手にバラされると怒る。
「処女を可愛いと思ってる男なんて大っ嫌い」というセリフに集約されているこの感覚は、去年話題になった、はあちゅうさんの童貞弄り論争にも通じるところがあるのではないかと思う。
本人たちが、または同じ属性の仲間内でやっている分にはネタだけど、よく知らない女性にやられると不快になる。コンテクストの問題ではなく、そもそも他人から言われることじゃない。
プライドの高い人の自虐ネタというのは、本当はそんなことないでしょ、という慰めとセットであることが前提になっている。
南海キャンディーズ山里亮太さんの「そんなことないよのカツアゲ」(5)『山里&マツコ・デトックス』2017/10/3という表現は言い得て妙だと思う。
「相手より上に立っていると思っている人間が相手の方に下りてあげる」のが自虐なのだから、相手に上に立たれていいとは一言も言っていない。むしろ逆だ。
世界には「自分」と「他人」の2種類しかない
ヨシカに恋愛経験がないことを裏でバラされていたことで、ヨシカが会社を辞めようとするシーン。ここも共感を覚えると同時に自分のイタさを客観的に突きつけてくる、キツい場面だ。
「会社中の全員が私を処女だと笑っているんだ」という台詞が酷く刺さった。そんなわけがない、と笑うのは簡単だが、自分が同じことを思ったことは本当にないのか?
店員に話しかけられないのも同じだ。店員に変な奴だと思われるのが怖い。実際はコンビニの店員なんて自分に興味がないのに。
自分の一挙手一投足を世界中の全員が監視していて、ちょっとでもおかしなことをしていたら笑ってやろう、馬鹿にしてやろうと身構えている感覚。
もちろん実際は誰も自分のことなんか見ていない。ヨシカが処女だろうが処女でなかろうが、ほとんどの人は気にしていない。
それでも割り切ることができずに、延々と引きずってしまう。
このような「自分以外の他人を一括りにして敵視する感覚」に関して、ちょうど自分が最近ブログに書こうと思っていた経験があって、私は複数人でカラオケに行った時の選曲に凄く悩んでしまう。
自分の歌が下手だから、ということももちろんあるのだけど、自分の入れる曲を周りの人が知っているかどうかが不安で仕方ない。ハイセンスな大喜利回答を常に要求されている気分になる。
みたいなことをバイト先の忘年会で感じたので、終わった後に年上の人に相談したら、「いや、俺の入れてる曲もたぶんみんなほとんど知らないと思うよ」という返答があった。
このような「自分以外の他人同士もそれぞれ他人である」という当たり前の事実を忘れてしまう経験は今までにも何度かあるのだけど、
それも全て自分以外の他人が全員等しく敵で、自分以外の他人は全員結託しているという価値観で生きている。
もしくは敵か味方かではっきりと分けようとしてしまう。ヨシカの場合はイチは味方で、だからイチに裏切られた時に大きなショックを受けてしまった。
他人には興味がないが、他人に見られる自分には興味がある
ヨシカは他人の名前を覚えられない、という話が出てくる。これも私も全く同じだ。他人の名前が覚えられない。
そんな話をしていて、「そこまで他人に興味がないなら、他人からどう思われようと別にいいじゃん」と言われたことがある。他人に興味がない割に、何でそんなに臆病なのかと。
だがその理由ははっきりしている。他人から見られる自分には興味があるからだ。興味がありすぎて他人がみんな自分のことを見ていると勘違いしてしまうほどのそれは、まるで自分が主人公の物語を生きている感覚。
他人のことを馬鹿にしているが、他人から馬鹿にされるのは我慢できない。むしろ尊敬されたい。だからヨシカは他人の名前を覚えないのに、他人にヨシカの名前を覚えられていないという事実には傷つくし、
その事実に向き合いたくないからそもそも他人には自分から話しかけない。相手が自分のことを知っているという前提で話しかけて「誰?」という反応をされるほど恥ずかしいことはないからだ。
自分と他人が違うことがわからない
一方で、ヨシカが他人から馬鹿にされているというのは、ヨシカが他人を馬鹿にしていることの裏返しでもある。
つまり、他者に対する想像力が欠けているがために、そして自分に自信がありすぎるがために、自分と同じような物の見方・考え方をしない人間の存在を理解できない。
つまり、もしヨシカが同僚の女子が実は処女だと聞いたら陰で見下すだろうから、陰で馬鹿にされていることを想像するし、それしか想像できない。
2015年4月から2016年3月まで放送されていた『朝井リョウ&加藤千恵のオールナイトニッポン0』というラジオ番組がある。
このラジオの、ゲストにオードリーの若林さんを迎えた回(2016/2/19(6)https://www.youtube.com/watch?v=kUls5LgqvC8。当該発言は38分頃)で、
小説家・朝井リョウが、自分が講演会を開けない理由について次のようなことを語っていた。
朝井「でも僕、若林さんが前に言ってたのが全く同じで、例えば……誕生日パーティーとかに行った時に、その……かつての自分がそういう場にいた時に凄い『何だよ。』って思ってたから、自分が誕生日パーティーを開けない、その過去の自分が絶対来場する、っていうのをおっしゃってたじゃないですか。
それ僕……完全に僕は講演会ができないんですけど。講演会全部断ってるんですよ今。それは、講演会を受けている高校生とかの中に、必ず過去の自分、つまり講演会なんてクソだと思っていた自分が必ずいるはずだと思って」
※言い淀みや文章の区切りなどを読みやすいように一部省略・編集しているので、完全な書き起こしではありません。
ここでは過去の自分という話になっているが、現在進行形の自分に置き換えても変わらないと思う。
自分に対する他者の目線を想像する時に、それは他者の立場に立った自分の目線になってしまうことは往々にしてある。他者が自分以外の気持ちを知ることはできないのだから当然だろう。
ヨシカとそうでない人たちとの違いは、その感覚を経験と論理で説得できるかどうか、ではないだろうか。
理想と現実、どちらが「逃げ」なのか?
ここまで恋愛的な部分にあまり触れずに来たが、やはりこの物語の主軸は「イチとニ」のどちらを選ぶかだ。
ニという現実の恋愛を前にして、イチのような脳内彼氏を作ったり、街中の人たちを脳内知人にして話しかけたりする行為は、おそらく「現実逃避」と言われるだろう。
しかし、本当に現実から逃げた先にあるのが理想なのか。理想を追うことは逃げなのか。
ニと付き合いだしてからもヨシカがイチのことを引きずっていたのは、おそらくこの記事でここまでずっと語ってきた、ヨシカの自意識過剰とも関係している。
自己評価が高すぎるが故に、自分は中途半端に妥協してはいけない、そうすることで「格好悪い自分」を認めたくない。
だとすれば、理想を追い求めることを諦めて、妥協する、その行為は逃げではないのか? 「ダサい」のはどっちで、「格好悪い」のはどっちなのだろう?
この問題について考えながら、私はふと2017年10月から12月まで放送されたオリジナルアニメ『Just Because!』のことを連想した。
夏目美緒は中学の頃からずっと片想いしていた相手がいたが、一大決心をしてその想いを断ち切った。その後、このような会話をしている。(7)引用は原作者書き下ろしの小説版より
「中学んときの片想い。その気持ちを大事にしまってて……」
「夏目さん、私」
葉月が何か言おうとする。でも、美緒は言葉を止めなかった。
「でも、やっと気づいたんだ。初恋のまま、あたしはずっと止まってたんだって。実らなかったし、実らせようとしてなかった。それで満足してた……友達に『好きな人いるの?』って聞かれたときも、『いるよ』って、会話に参加できたから」
初恋を大切にする、中学の頃からの片想いを抱え続ける、それらは「止まってた」状態だった。
『Just Because!』の美緒はヨシカのような女子とは少し違うが、自分の片想いを吹っ切った後で語るこの自分評は、ヨシカとも通じるところがあるのではないだろうか。
過去の自分の理想の相手を想い続けることは、過去の自分の感覚を言い訳に、今の自分が新しい判断を下さないということでもある。
その方が「停滞」であり、「逃げ」である、そう言ってくれる相手が、ヨシカには必要だった。
そして、その内容は冒頭のシーンで既に語られていた。あらすじにも書かれている。
「本能のままにイチと結婚しても絶対幸せになれない。結婚式当日もイチが心変わりしないようにって、野蛮に監視役続けてなくちゃならない、そんなんで幸せなんて味わえるかよ。その点ニならまるでひと事みたいにお式堪能できちゃう。ドレスのままチャペルから何だか知らんが丘駆け下りてわがままにニのこと放ったらかして、波と戯れたりデコルテあらわなドレスで肩上下させてハーハーしたりして花嫁タイムをエンジョイできちゃう」
このセリフが作中のどこの時間軸に挿入されるのかは断定できないが、
本能、野蛮、それらのネガティブな形容詞はヨシカにとって、現実に妥協して目の前の恋愛に精を出す来留美のような人間に向けられた言葉だったはずだ。しかし、この文章をよく読むと、そうなっていない。
自分の感覚を100%肯定して理想を追う方は、本能のままに生きる人間で、自分を好いてくれる相手と付き合うことが理性的な人間だという。100%真逆になっている。
この発想の転換がキモなのだ。
野蛮に目の前の恋愛に飛びつくようになったわけでもない。「いい年して夢見てないでそのへんの男と結婚しなさい」なんていう古臭くて前時代的で上から目線の馬鹿のアドバイスに屈したわけではない。そんな屈辱的なことを受け入れるわけがない。
「ニと付き合う方が理性的だ」という。
このロジックが、まさにこの映画が私たち「ヨシカのような人々」を肯定している理由でもある。
理想を追うことを諦めて現実に妥協しろ、などという説教臭いメッセージではない。
理想を追うこと、理性的であることを諦めようとしない自意識過剰で不器用な”私たち”に、”別の理性的の形”を提示しているのである。
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References
^1 | 私の3ヶ月前の実体験です |
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^2 | そもそも「タモリ=昼の顔」というイメージも昔の話だから、タモリ倶楽部の相対的なサブカル感は薄れているのではないか |
^3 | 現在別の彼氏がいる元カノに告白したことがあります。その顛末を書いた記事⇒同窓会と成人式と伏線回収 |
^4 | この種明かしシーンを観ながら、実はアパートの隣のオカリナさんや来留美との会話も全部妄想だった……という更なる展開を一瞬予想して怖くなったが、さすがにそこまでホラーではなかった |
^5 | 『山里&マツコ・デトックス』2017/10/3 |
^6 | https://www.youtube.com/watch?v=kUls5LgqvC8。当該発言は38分頃 |
^7 | 引用は原作者書き下ろしの小説版より |